大植 英次/指揮者

大植 英次(おおうえ えいじ)さん
音楽は世界の表現。
「音楽はユニヴァーサル・ランゲージ。シェイクスピアはそう言ったけど、それは本当だと。音楽は耳の不自由な方にも通じる。音楽はもっといろんなものを超えられる。そんな音楽の力を体感した瞬間でした。」
CANではなく、MUST。
四月の終わり、オーケストラ指導のため、県内の高校を訪れた氏。"メトロノームと小節線は演奏の敵ですよ" "四分音符と八分音符は長さだけでなくキャラクターも違うんです"…そんな氏の一言一句が演奏者の心をどんどんとらえていく。音楽を感じる心が変われば、音が変わる。90分後にはまるで違う演奏がそこにあった。氏の音楽を愛おしむ気持ちに見ている者の心も動かされる。楽器を弾きたい――そう感じた人も少なくなかったはずだ。
- ――今日のようなオーケストラ指導を通じて、音楽の楽しさをあらためて知る演奏者も多いのではないかと思います。ご自身にもこれまで音楽を通じた幸せな出会いの数々があったと思われますが。
- 「僕は小さい頃からずっとピアノをやっていて、そうしたことを学校の先生が応援してくださったことが大きかったと思います。僕は広島県の出身ですが、小学校二年生のときの担任の先生が広島先生といいまして(笑)、彼は僕と山本浩二の担任だったというのを自慢にしているんですけど(笑)、その先生は僕が三、四年になっても自分の教室に来てちょっと弾いてほしいといいに来るんです。学校で一番年上の先生だったので、担任もどうぞ、どうぞと送りだす。上級生の卒業式の日にも『蛍の光』を弾きに来いと突然いうんですけど、実は『蛍の光』をあまり知らなくて、適当に弾いたのを覚えています。とにかく学校の中で僕をよく使ってくれましたね。中学校の担任の先生も、体育の先生なのに僕の音楽をサポートしてくれました。」
- ――ピアノのほかにもさまざまな楽器を手にされ、高校、大学ではホルンを専攻されてましたが、指揮者になろうとは思われなかったのですか。
- 「音楽ができれば何でもよかったんですよ。フルートを始めたのも、母方の伯母が林りり子先生の同級生だったことから紹介されて、とりあえず笛を吹いてごらんといわれて、吹いてみると音が出る。じゃあ、笛をやりなさい、あなたは手が小さいからピアノじゃ無理よといわれたんです。ただ、忙しい先生だったので、東京か福岡でレッスンを受けるしかなくて、それも芸術家だから、今教えたいと思うと突然家に電話がかかってきて、それで親が学校に電話して、僕は学校放送で呼び出されるんです。当時の教頭先生は厳しいことで有名な先生でしたが、その先生が授業を休んでレッスンに行くことを後押ししてくれました。親が支えてくれて、学校も支えてくれた。だから、音楽学校は自分の行くべきところだと思ってました。CANではなく、MUSTです。」
エイジ・エクスプレス。
- ――アメリカにお住まいの頃から音楽を通じた地域活動にご熱心でいらっしゃいますが。
「きっかけは興味からなんです。二十年
以上も前、バッファローで指揮をしていた頃、ファンだという修道女の方が二人、僕のところにいらっしゃって、僕の音楽を皆で分かち合いたい、ついては出向いてもらえないかというわけです。ただ、よく聞いてみると、どうやらそこは聾唖学校のようなんですね。僕としては 耳の不自由な人に音楽を? と、失礼ながら単純な疑問と興味が湧いたのは事実。オーケストラではなく、僕一人でピアノを弾いてくれればいいということでしたのでとにかく行くことにしたんです。そこには調律も満足にされていない古いグランドピアノがあって、四歳ぐらいの小さな子から中学生ぐらいまで、四、五十人程でしょうか。少し聞こえる子もいるけれど、まったく聞こえない子もいました。ちょっとしたモーツァルトを一曲弾いたところで、"もっとそばにどうぞ"と手話で誘ったんです。そうしたらワァーッと駆け寄ってきて、ある子はピアノに耳を押しつけて震動を感じようとしたり、ある子は僕の身体を触って音楽を感じようとしたり。曲が盛り上がってくると自然に高揚して、静かな曲になると穏やかな様子になる。ああ、ちゃんと聞こえているんだと僕のほうが感動しましてね。シェイクスピアが"音楽はユニバーサル・ランゲージだ"といったけど、本当にそうだと。音楽は耳の不自由な方にさえ通じる。言葉の違いだけでなく、音楽はもっといろんなものを超えられる。そんな音楽の力を体感した瞬間でした。そして、これは音楽家としてこれからもやり続けたいことの一つだと思ったんです。」
- ――教育プログラムの盛んなアメリカにおいても、その活動は群を抜いていたとうかがっています。
- 「ボランティアで普通の学校も回り始めたちょうどその頃、イギリスでパンナム機の爆破テロがあって、音楽で何かできないかという思いもあったんです。ペンシルベニア州のエリー(エリー・フィルハーモニック)に行ってからも続けましたが、そこはそれほど大きな町ではなかったので、幼稚園から養老院までとにかくすべて回ろうと。二、三十人というクラスルーム単位のコミュニケーションは、普段の千人規模のコンサートとは違った手応えがありますね。」
- ――<エイジ・エクスプレス>という呼び名が生まれたのは、その頃でしょうか。
- 「それはミネソタ(管弦楽団の音楽監督)の時代ですね。当時仲良くなったあるテレビ会社の社長が大きな船やジェット機を所有していまして、それらをいつでも使っていいといってくれていたんです。それで考えたのがプライベートジェットを使って、ミネソタ州の各地の学校を回ることでした。一日で六都市を回ったこともありましたね。」
ワグナーの聖地にて。
- ――アメリカからドイツへ、現在はスペイン、日本のオーケストラでも音楽監督を務められていますが、楽団員の心をつかむコツのようなものはおありですか。
- 「自然体ですよ。構えてもオーケストラのメンバーは十人十色。こっちがどうしたところで合わせてはくれませんから。構想を立て、テンポやイメージを提示するのは僕ですが、ただ、いつも気をつけているのは楽員からも学ぶ姿勢、シェアする、分かち合うという気持ちですね。とくにドイツ人は音楽においては世界の中心がドイツにあると思っていますから。」
- ――そんなドイツでの実績が認められ、バイロイト音楽祭では過去トスカニーニやカラヤンが立ち、小澤征爾、アバドといった巨匠たちでさえ未だ経験し得ない創作の中心に東洋人として初めてお立ちになったわけですが。
- 「それはもう音楽家冥利に尽きます。リヒャルト・ワグナーとフランツ・リストの血を引いた人が総監督としてそこにいると思うだけで興奮しました。あそこ(バイロイト祝祭劇場)は百何十年間、何一つ変えていないんです。椅子一つ変えても音響が変わってしまう。だから、クーラーもなくて暑いけれど、その代わり当時と同じ音がそこにあるんです。ワグナーという人は徹底していて、舞台だけを見て欲しい。だから、指揮者が出てくるのも、拍手さえも邪魔。オーケストラ・ピット全体にはカバーがされていて、客席から見えないので、楽員はもちろん、演奏中は指揮者も普段着でいいんですよ。カーテンコールのために、終わったらタキシードに着替えるんです。」
- ――六月には十年を共にされたハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーでグランシップに初登場とのこと。この夏には首席指揮者から終身名誉指揮者に就任されるとうかがっています。
- 「ドイツという国は歴史的に全員賛成ということはありえないそうです。誰かが反対したり、棄権したり。それが今回はディベートもなく、全員が〈終身〉に賛成したと。ありがたいことです。この十年はとにかく勉強になりましたね。十年間、あまりメンバーが変わっていないこともあり、ファミリーのような感覚もあります。今後、立場は少し変わりますが、先々の公演も予定されていますし、シンフォニーでいえば、一楽章が終わったところ、次は二楽章へというところでしょうか。」
- ――グランシップでは、静岡県ではなかなか聴けないマーラー、それも第九番が聴けるということで楽しみです。
- 「マーラーの交響曲第九番は、ハイドンから始まってベートーヴェンと続く、シンフォニーの集大成のような曲です。自然を表し、人間の進化を表現した曲ですね。僕が一番最初にこの九番を聴いたのは一九七九年の夏。タングルウッドという町でした。バーンスタイン先生の家族ボックスで聴いたのですが、終わったとき、ものすごいものを聴いた気がして、自然に涙が溢れていました。その日は屋内で六千人、外で三万人が聴いていたんですが、全員が巡礼者のように舞台に吸い寄せられていくのを見たんです。以来、これは大事にしておいた曲。静岡でのマーラーをぜひ楽しみにしていてください。」
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大植 英次プロフィール
指揮者。4歳よりピアノを始め、桐朋学園で指揮を学ぶ。1978年、アメリカに渡り、小澤征爾の招きでタングルウッド・ミュージック・センターに学び、同年ニューイングランド音楽院指揮科に入学。故レナード・バーンスタインに出会い、晩年まで師事。バッファロー・フィル準指揮者を経て、'90年~2002年エリー・フィル音楽監督、'95年~ミネソタ管弦楽団音楽監督を務める。'98年ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの首席指揮者に就任し、この夏より終身名誉指揮者となる。2003年より故朝比奈隆の後任として大阪フィル音楽監督に就任。さらに'06年からバルセロナ交響楽団の常任指揮者兼アーティスティックアドヴァイザーに就任。'05年には新演出の「トリスタンとイゾルデ」で日本人指揮者として初めてバイロイト音楽祭で指揮し、世界の耳目を集める。'57年広島県生まれ。