橘家 圓蔵/落語家

「SERIESわが羅針」Web版。ゲストの方に様々なお話を伺います。

落語家

第33回

橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)さん

しあわせな商売。

「落語っていうのは、死ぬまで苦労する商売ですよ。でもね、72歳でまだ目標が持てる。まだ苦労できるなんて、こんなしあわせな商売はない。苦労なんてのは、客にしゃべる言葉じゃないけど、ありがてぇなと思いますよ。」

自分の中にある情景をしゃべる。

1時間ほどの取材の後、師匠がかつて“ヨイショの月の家円鏡”と呼ばれていたことを思い出す。ヨイショというのは、そこに計算が見えると逆効果だが、本家のそれは計算どころか、その気遣いさえみせまいとする心がある。その場の空気をほぐしながら、隅々に気を配り、人の気持ちをすいっとつかんでしまう。師匠は落語家をしあわせな商売だと語ったが、師匠に出会った人は、寄席の内外で師匠から小さなしあわせをもらっているのだ。

――落語の世界に入る前は、紙芝居をなさっていたとうかがっていますが。
「親父が紙芝居屋だったんです。全国大会で2位になって、支部長なんかもしてたんですね。それで私はというと、小学校5年生の時、山形の鶴岡市に学童疎開をしていて、ある雨降りの日に宿屋で勉強していると、先生が何かやれと言う。それでちょっと聞き覚えのあるものをしゃべったら、面白い、落語家さんになりなさいと言うわけです。じゃあ、そうしようと。だったら、趣味と実益を兼ねるだろうということで中学生の頃から紙芝居を始めて、17歳でこの世界に入りました」
――当時の紙芝居の経験は、落語の修業に通ずるものがおありでしたか。
「落語家になって気づいたんですけれど、落語よりも紙芝居の方が難しい。紙芝居は一日10カ所ほどやると、明くる日には絵が変わって、新しいネタを覚えなきゃならない。もちろん話は裏に書いてあるんですけど、親父はそれを読みながらしゃべるのは邪道だ、覚えなさいと言う。だから、絵を見ながらしゃべるわけですが、覚えた頃にはまた新しいものですよ。ところが落語は一度覚えたら、一生使えます。まあ、重みは違いますがね。落語に絵はありませんが、落語家は自分の中にある、その情景をしゃべるんだと思います。たとえば僕が隅田川の花見の情景をしゃべる。でも、お客さんは隅田川だろうが、東京湾だろうが、思い浮かべるものは自由なんです。」
――さらに話芸では“笑わせる”ことが最も難しいといいますが。
「笑わせるっていうのは、健康にいいんだね。お客さんじゃなくて、俺にとってね。ウケルとスーッとする。でも、ときには腹立つこともあります。あんた、寄席に何しに来たのって聞きたくなる。広島あたりで落語をやった帰り、飛行機の窓におでこをつけて泣いたことがありますよ。なんで俺はあの客をおさえられなかったんだと悔しくてね。そういう時があるの。そこは紙芝居とはえらい違いですよ。でも、逆にお客さんを引きつけられた時は嬉しいねぇ。年に5百席のうち、ああ、今日はよくできたな、と思えるのはわずか5席ほどなんだけどね。ウケても、それなりに聞かせても、自分が満足できて、落語家になって良かったと思うのはせいぜい5回なんだよね。」
――七代目橘家圓蔵師匠、八代目桂文楽大師匠のもとでの修業時代はいかがでしたか。
「何にも辛くなかったな。覚悟していましたから。それこそ内弟子になって、道路に水を撒いて、それが凍って裸足でその上を歩く。冷たい風呂場を洗う。そんなことは平気でした。それよりも落語の上で予期していなかった苦労がありました。ウケなくて、どんどん深みにはまっていく時ね。野球でいえば、出れば打たれる、出れば三振。そうなると迷っちゃうんだね。俺にこの商売の素質がなかったんだ、そう思う時の辛さったらないよね。」
――亡くなられた林家三平師匠とは、先代の圓蔵師匠の門下で兄弟弟子の間柄でいらしたそうですね。
「三平師匠は兄弟子でした。偉い人でね。昭和の爆笑王と言われますが、テレビの中とは違って、とても真面目な人でした。当時、僕は“うちの節子が…”で売れましたが、節子っていうのは、もともと大師匠の所の女中で、それと私がくっついちゃったもんだから、みんな節子はどうした、節子は元気かと聞いてくる。それが嫌でね。じゃあ、それを逆手に取れってんで、いやあ、節子が馬鹿だ、元気だって楽屋で言ってたわけです。その時すでに三平兄サンは“よし子さ~ん”で売れてましてね。実の奥さんは香葉子さんですから、よし子というのは架空の人物ですけど。まあ、それで三平兄さんが言うんです。俺がよし子で受けたんだから、お前は節子でやれと。だけど、俺が元祖でお前は支店。マネは絶対いつか崩れる。その時に出てくるのがお前の芸だからな、とね。この人はやはり大物だなと思いました。今、テープが残っていないのは本当に残念ですが、三平兄サンの古典落語は本当に面白かった。誰もマネできない。あの感覚はついていけないですよ。それに比べたら、“よし子さーん!”なんて、“へ”です。(笑)」

落語はアドリブの数学。

――師匠がテレビに初めて登場された頃は、そのスピード感あるしゃべりに世間は圧倒されました。
「俺はね、他人の落語を聞いててイライラしちゃうの。落語っていうのは、国語に強い奴、数学に強い奴が向いてると思うね。アドリブの数学。たとえば50÷32と言われて、すぐに計算できなくても、この辺だな、ということがピンとわかることが大事なんです。私は弟子に教える時、そろばんで教えるんですよ。たとえば“そうでありました”と言うと8文字で、それを“そうだった”と言えば3文字削れて5文字になって、スピードが出る。まあ、これにはヒントがありましてね。私の大師匠の桂文楽が若手の頃、“え~、馬鹿馬鹿しいお笑いを、え~…”という具合に“え~”というのが多かった。そうすると、(三代目三遊亭)円馬という人が、この“え~”の度におはじきをポーンと投げる。1席終わって数えてみて72個あると、50まで減らせと言う。で、再び1席やって40だとすると。じゃあ、今度は30個まで減らしてみろと。そういう具合にムダを削っていく訓練をしたそうですよ。ただ、これを0にしちゃったら、その落語はメチャメチャになります。自分の間がつくれなくなるからね。これを自分はそろばんで教えたわけなんです。」
――そういえば、眼鏡をかけて高座に上がった初めての落語家は師匠だったそうですね。
「そうらしいね。レンズが光ると表情が死ぬから、普通は外すんだけど、俺は表情を見せるほどの落語家じゃない。動きや言葉で笑わせる落語家だと思ってましたからね。別にツッパッて眼鏡を外さないんじゃなくて、外すと客席が見えない。客の顔を見ながら、パパパパッとしゃべっていくのが、私の財産だと思っているんです。」
――その眼鏡をトレードマークに、昭和30年代後半は、テレビやラジオで師匠の声を聞かない日はなかったほどでした。
「売れたね~。(笑) でも、テレビの世界でこのままやっていこうとは思わなかった。やはり落語が本業であると。ただ、お金がほしかったからね。だからって、いくらじゃなきゃというのもなくてね。幸いディレクターにかわいがられたんです。ラジオドラマで“おい、魚屋一人”って呼ばれると、出て行って、“ちわ~、魚屋で~す”と言って、また“新聞屋一人”って言われるとまた出てって、“新聞屋でござい”ってね。一声で7百円。それがマスコミの仕事の最初。その後、名前も升蔵から円鏡になって、テレビ局を幾つも掛け持ちしてね…うーん、儲かったなぁ。(笑)」
――それがある時を境にマスコミへの出演を控えられるようになった…そこには何かきっかけがおありだったのでしょうか。
「そろそろ落語に戻らなきゃと。不思議なもので、そういう意識が働くと、自然に芸がそうなっていって、テレビの仕事が自然に減りますわな。でも、それもよしと。私は決して落語を捨てなかった。大事に思ってました。三平兄サンもあれだけテレビに出ていても、決して寄席は捨てなかったですね。」
――半世紀以上の落語人生の中で、落語に対する意識は変わられましたか。
「いつも言うんだけど、落語家は3つしかないと思っているんです。上手い落語家と達者な落語家、面白い落語家ね。上手い落語家というのは、亡くなった(古今亭)志ん朝さんでしょう。達者な落語家は(立川)談志兄貴ね。この二人にはかなわない。じゃあ、俺は面白い落語家を目指すしかないじゃないかと。そうすると、同じような奴がどんどん出てきても、ちっとも怖くない。やっかみもない。だけど、面白落語だけは出させねぇと。しかし、そう思っていてもだんだん後輩に抜かれていきますよ。20年位前かな。先代の(柳家)小さん師匠に、“俺、(春風亭)小朝に負けちゃった”って言ったんです。あいつのパワーについていけないと。そうしたら“バカ、お前はあいつより古いんだからテクニックでフォローしろ”と言われましてね。なるほどと。それで楽になりました。落語っていうのは、死ぬまで苦労する商売ですよ。でもね、72歳でまだ目標が持てる。まだ苦労できるなんて、こんなしあわせな商売はない。苦労なんてのは、客にしゃべる言葉じゃないけど、ありがてぇなと思いますよ。」
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橘家 圓蔵プロフィール

落語家。当代は八代目。中学生の頃より紙芝居の職業を体験。1953年に四代目月の家圓鏡(後に七代目橘家圓蔵)に入門。前座名は橘家竹蔵。桂文楽の内弟子をつとめ、'55年橘家升蔵で二ツ目、'65年に真打に昇進し、五代目月の家圓鏡を襲名。立川談志、三遊亭円楽、故古今亭志ん朝とともに、落語四天王と呼ばれる。'82年に八代目橘家圓蔵を襲名。圓鏡次代、演芸ブームで脚光を浴び、TBS「お笑い頭の体操」、テレビ朝日「日曜演芸会」、ニッポン放送「円鏡のハッピーカムカム」等で一躍人気落語家となる。林家三平の「ヨシコさん」に対し、「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケ、また、立川談志との当意即妙な掛け合いで湧かせた「談志・円鏡歌謡合戦」(ニッポン放送)は今や伝説的番組となっている。34年、東京都生まれ。